はじめに
沖縄の紅芋について調べていると、「宮農36号」という品種名に行き当たることがあります。数字の並んだ名前は、いかにも試験場の系統番号のようです。実際そのとおりで、この名前は仮の番号がそのまま定着したものでした。宮農36号は、いまの沖縄の紅芋文化が始まる地点に立っていた、さつまいもの品種です。本記事では、この品種の来歴と、そこから「紅芋」という呼び名が広まっていった経緯を、農林水産省の統計といも類振興会の調査記事をもとに、わかりやすくご説明したいと思います。
宮農36号とは?沖縄の紅芋の出発点になった品種
宮農36号は、沖縄県で戦後まもなく育成された、中身が濃い紫色のさつまいもの品種です。沖縄では紫肉のさつまいもをまとめて紅芋と呼びますが、その流れをつくった品種として知られています。まずは、いつ・どこで・どのように生まれたのかを確認していきます。
1947年に交配が始まり、1949年までに選抜された
この品種が生まれたのは、終戦から2年後のことでした。
いも類振興会の『いも類振興情報』131号によると、宮農36号は1947(昭和22)年度、宮古島の農事試験場で交配が始められ、当時同場に勤めていた垣花実記(かきのはな じっき)らによって選抜されました。食糧増産が急務だった時期に、県内で優良とされていた「紅」をもとに交配が行われ、1949年までの3年間で、少なくとも83系統から15系統が選抜されています。宮農36号はそのひとつです。
なお131号は、当時の所属を「宮古群島政府」の試験場と記していますが、宮古群島政府が設置されたのは1950年であり、1947年当時はまだ存在しません。本記事では組織名を特定せず、「宮古島の農事試験場」と表記しています。
当時の記録では、草勢が強く晩生で、粉質、食味は優秀、虫害に強いと評価されています。同じ表には宮農1号や宮農7号なども並んでおり、宮農36号だけが飛び抜けた評価だったわけではありません。
名前は「宮古の試験場で付けられた系統番号36」
品種名の「宮農」は、育成した試験場の名前を縮めたものです。
宮古農事試験場で選抜された系統には、宮農1号・宮農4号・宮農7号というように系統番号が付けられました。36号もそのひとつです。同じ連載の『いも類振興情報』130号は、この名前が宮古農事試験場で育成された系統番号36を意味すると説明しています。数字が選抜や作出の順序を表しているかどうかまでは、資料に示されていません。
130号はさらに、初代の「読谷紅いも」となったこの品種が、「高系14号」と同じように品種名をつけないまま栽培が広がっていったと記しています。131号も、系統番号のまま40年以上を経たとしています。番号だけの名前が、そのまま品種の呼び名として定着しました。
記録に残るかぎり、沖縄で最初の濃い紫肉だった
宮農36号が「原点」と呼ばれるのは、単に古いからではありません。この品種より前に、沖縄で肉色の濃い紫のさつまいもが記録された資料が、いまのところ見つかっていないためです。ここでは、その根拠になっている資料を順に見ていきます。
1951年の資料に、濃い紫の品種は載っていない
戦後の沖縄では、さつまいもの肉色はほとんど注目されていませんでした。
131号によれば、1951年にまとめられた『沖縄に於ける甘藷の育種事業とその業績の概要』(農林省農業改良局研究部)の特性表では、紫斑を呈する品種がわずかに挙げられているだけで、肉色が紫や濃紫の品種は記載されていません。一方、1968年4月の『農試資料第3号』(琉球農業試験場)では、濃紫色系の品種として宮農36号が記録されています。
131号は、宮農36号が育成された1947年より前に、濃紫色系の品種が記録された資料は見つかっていないとも述べています。当時の選抜は、もっぱら収量と食味を基準に行われていました。色そのものを価値として扱う発想は、まだなかったのです。
復帰前後の奨励品種も、白・淡紫・紫斑が中心だった
これは古い時代の話にとどまりません。
130号によると、1980年代の農業試験場の育種目標は、県外で普及していた「農林1号」や「高系14号」のような紅皮で黄色系の肉色が中心でした。当時の沖縄県の奨励品種の肉色も、「ナンゴク」は白、「ヨギムラサキ」は淡い紫、「農林17号(ナカムラサキ)」は白地に紫斑、「夏まさり」は橙色、日本復帰後初の奨励品種となった「オキユタカ」は紫斑と、さまざまでした。
濃い紫一色という肉色は、当時の沖縄のさつまいものなかでは目立つ存在だったことになります。
交配親は「紅」×「ハワイ」だが、紫の出どころは不明
では、その紫はどこから来たのでしょうか。
131号は、宮農36号の交配親を母本「紅」、花粉親「ハワイ」と記録しています。母本の「紅」は、資料によって「紅藷」「紅芋」などとも書かれる品種で、皮は紫紅色、中身は白でした。花粉親の「ハワイ」については、当時の保存品種リストに4種類の「ハワイ」が並んでいますが、肉色が記録されているのは1つだけで、それも白でした。
つまり、両親のどちらから濃い紫が受け継がれたのかは、資料からはたどれません。130号によれば、選抜された15系統のうち「ハワイ」を花粉親に使ったのは宮農36号だけでした。
なお、1949年に選抜された15系統の特性表には、そもそも肉色の記載自体がありません。当時、肉色は記録する価値のある項目とすら見なされていなかったことがうかがえます。
「紅芋」という呼び名は、いつ広まったのか
いまでは沖縄の特産品を指す言葉として定着した「紅芋」ですが、この呼び名がいつ、どこから広まったのかはあまり知られていません。手がかりは、宮農36号を使った村ぐるみの取り組みと、その交配親の名前にあります。ここでは、時期と語源を分けて整理します。
読谷村のむらおこしと初代「読谷紅いも」
宮農36号の名を一気に広めたのは、読谷村(よみたんそん)でした。
131号によると、1975年ごろ、読谷村の座喜味かんしょ生産組合の比嘉榮次郎氏らが、那覇市の農連市場にあった焼きいも業者から種いもを譲り受け、村内で栽培を広げました。1980年ごろには村による紅芋のむらおこし事業が始まります。131号は、宮農36号が当時の県内で最も濃い紫色系の肉色を持つ品種だったとしています。
そして130号は、肉色が紫の品種を指して「紅イモ」と称するようになったのは、日本復帰後の1970年代後半、読谷村で宮農36号が栽培されるようになってからだ、と記しています。読谷村役場でかんしょの振興に関わった玉城悟氏への聞き取りをふまえた整理で、呼び名の時期については現時点で最も具体的な記述です。ただし、当時の新聞や行政文書といった同時代の資料が示されているわけではありません。こうして「読谷紅いも」という地域ブランドが定着し、やがて村の外でも同じ名前で栽培される現象が起きました。
呼び名のルーツは母本「紅」にあるという見方
では、なぜ紫色の中身に「紅」の字が当てられたのでしょうか。
131号は、濃紫色のさつまいもに使われる「紅芋」という名称について、垣花実記らに交配親としても高く評価され、1950年代に県内で栽培が広まった「紅芋」「紅藷」という品種名が、呼び名としてなじみがあったためではないかと述べています。宮農36号の母本の名前が、そのまま紫色のいもの呼び名に転用された可能性があるということです。
実際、130号によると、選抜された15系統のうち13系統は「紅藷」を交配親としていました。「紅」は当時の宮古島の育種で中心となる交配親であり、その名が広く知られていたことがうかがえます。
ただし、こちらは資料が推測として書いているもので、確定した記録ではありません。本記事では、時期については130号の整理を、語源については131号の見方を、それぞれ確度の異なる情報として区別して扱います。
育成から40年後、ようやく県の奨励品種に
宮農36号は、生まれてすぐ主役になった品種ではありません。宮古島で選ばれてから沖縄本島へ渡り、さらに読谷村で広まって、ようやく県の奨励品種に指定されました。その間には40年あまりの時間が流れています。ここでは、その長い助走を順に追っていきます。
1961年に本島へ、1975年ごろ読谷村へ
宮古島で選抜された品種が本島へ渡ったのは、育成から14年後のことでした。
131号によると、宮農36号は1961年に沖縄本島への導入が図られ、1960年代には「照間(てるま)」「平安山(へんざん)7号」に次いで県内で3番目に栽培面積の多い品種になっていました。ただしこの時点では、肉色が評価されていたわけではありません。
同じ資料は、1952年に残っていた宮農系統が5系統で、そこに36号が含まれていなかったこと、1972年の日本復帰のころには宮農7号と36号の2系統が保存されていたことも記しています。一度は中心から外れた系統が、後に主役になった流れです。
普及が先で、指定が後という順序
131号は、県の奨励品種になったのを1989(平成元)年としています。
交配が始まった1947年から数えて、40年余りを経ての指定です。制度が優良品種を選んで農家に勧める、という一般的な順序とは逆で、現場での栽培が先に広がり、あとから制度が追いついた形になっています。131号は、県の奨励品種になる前にこの品種を普及させた読谷村の着眼点を評価し、それが今日の沖縄の紅芋文化につながる礎になったと記しています。
ちなみに、次の世代を担った在来品種の備瀬(びせ)は、採取から14年で県の奨励品種になりました。宮農36号の40年余りが、いかに長かったかがわかります。
かいよう病が変えた産地——読谷村からうるま市へ
「読谷紅いも」として広まった宮農36号ですが、その座は長く続きませんでした。きっかけは、かいよう病という病気の多発です。ただし、この品種がどこでも病気に弱かったわけではありません。ここでは、産地が移っていった経緯を見ていきます。
読谷村では備瀬と入れ替わった
読谷村での交代は、1980年代後半に起こりました。
130号によると、1980年代の後半、宮農36号には、収穫したいもの表皮が黒くくぼむ「かいよう症状」が多発するようになりました。商品価値が大きく落ち、「読谷紅いも」の存続が危ぶまれる事態だったと記されています。
そこで読谷村の関係者が農業試験場から持ち帰ったのが、在来品種の「備瀬」でした。130号は、備瀬が宮農36号に比べてかいよう病に強く、収量も高いとしています。こうして「読谷紅いも」の看板は、2代目の備瀬へと引き継がれました。備瀬は白い皮に濃い紫の中身を持つ在来品種で、のちに登録品種の親にもなりました。
宮城島では同じ症状が出なかった
同じ品種でも、土地が変われば評価が変わります。
131号によると、1990年ごろにさつまいも栽培を始めた当山盛春氏は、うるま市の宮城島にあるジャーガル土壌(泥灰岩が風化してできた、アルカリ性の重粘な土壌)で栽培した宮農36号に、読谷村で多発したかいよう病が見られないことを突き止めました。宮城島の栽培面積は2000年ごろに最大15haまで広がり、1990年代は宮農36号の産地が読谷村から宮城島へ移っていった時期にあたります。
沖縄県の資料でも、『いも類振興情報』95号(沖縄県農林水産部糖業農産課)が、2006(平成18)年ごろの実績としてうるま市の作付割合の5割以上を宮農36号が占めたと報告しています。同じ資料では、読谷村の作付割合の9割を備瀬が占めたとされており、2つの品種が産地を分け合っていた様子が読み取れます。
ここで注意したいのは、この一例だけで「品種の側に問題はなかった」とは言えないことです。130号は備瀬のほうがかいよう病に強く収量も高いとしており、宮農36号の側の弱さもうかがえます。一方で宮城島の事例は、土壌や栽培環境も発病に関わることを示しています。当時の「かいよう病」が現在のどの病害にあたるのかを含め、資料から特定できるのはここまでです。それでも、産地が変わったことでこの品種が一度は評価を取り戻したことは確かです。
どんな味・品質だったのか
宮農36号がどんな味だったのかは、検索でもよく調べられる点です。ただし、この品種の味を条件をそろえて比較した試験データは見当たりません。ここでは、資料で確認できる範囲を、出所を分けて整理します。
育成当時の記録は「粉質・食味優秀」
最も古い評価は、選抜されたときの記録です。
131号に掲載された1949年の特性表では、宮農36号は草勢が強く晩生で、粉質、食味は優秀、虫害に強いと記されています。粉質は、蒸したときにほくほくとした口当たりになる性質を指します。ただしこれは当時の試験場による叙述的な評価であり、数値化された測定値ではありません。
同じ表には、食味を宮農36号よりさらに高く評価された宮農7号のような系統も並んでいます。宮農36号は、当時の評価としては上位ではあっても、突出していたわけではなかったことになります。
加工原料として評価されたのは、繊維と変色のしにくさ
品質が本格的に評価されたのは、それから40年以上あとのことでした。
131号によると、うるま市の宮城島で栽培された宮農36号は、収量こそ中程度でしたが、形状・肌・食味がよく、肉色は鮮やかな赤紫を呈しました。さらに、繊維が少なく加工歩留まりが高い(原料のいもから取れる製品の割合が大きい)こと、蒸したときに変色が見られないことなど、加工に向いた特性を備えていました。この品種でつくったペーストは、加工業者から菓子の原料として高く評価されたと記録されています。
131号は、宮農36号について、収量性が低いという欠点をしのぐ優れた特性が、鮮やかな赤紫色と食味の良さだったとまとめています。この2点が、この品種が長く使われた理由でした。
「備瀬より甘い」という紹介の扱い
一方、インターネット上の食材紹介などでは、備瀬と比べて甘みに勝る、という説明を見かけることがあります。
こうした記述は、比較の条件(栽培地・収穫時期・貯蔵期間・調理法)が示されていないため、育成試験や普及の記録と同じ重みでは扱えません。本記事では、上に挙げた一次・準一次の資料の記述を品種の特性として扱い、これらの紹介は参考情報として位置づけます。糖度などの数値で両者を比較した公表データは、現時点では確認できていません。
1990年代の紅芋と、肉色の退色
産地を移して息を吹き返した宮農36号ですが、2000年代に入ると別の問題が現れます。売りだったはずの濃い紫が、しだいに薄くなっていったのです。ここでは、当時の紅芋がどんな状況にあったのかを押さえたうえで、色の変化と、この品種のいまの扱いを整理します。
当時の紅芋は、2つのタイプに分かれていた
宮農36号の位置づけは、同時期の他の品種と並べるとよくわかります。
131号は、1995年ごろの紅芋の事情を次のように整理しています。ひとつは、食味は良いものの、収穫時期や個々のいもによって肉色の濃淡が出て、色の安定性に欠けるタイプで、宮農36号・備瀬・ハワイ紅がこれにあたります。もうひとつは、鮮やかな濃紫色を呈するけれども、えぐみが強く食用には向かないタイプで、V4や、県外の品種ではアヤムラサキがこれにあたります。
既存の品種はどれも一長一短でした。そこで、多収で外観に優れ、肉色が鮮やかな濃紫で、しかも食味の良い紅芋をつくることが、育種の目標になっていきます。宮農36号は、この整理のなかで「味は良いが色が安定しない」側に置かれていました。
2000年ごろから色が抜けはじめた
そして、その弱点は年を追って深刻になっていきます。
131号によると、2000年を過ぎたころから宮農36号の肉色は淡くなり、色が抜けて白くなる個体が現れるなど、不安定になっていきました。傾向は徐々に強まりましたが、原因は明らかになっていません。
同じ現象は、あとを継いだ備瀬にも起きました。131号は、備瀬が宮農36号と同じ道をたどらないよう、濃い紫を保つ方法の確立が急がれるとしています。なお、この紫色はアントシアニンという天然の色素によるものです。色素そのものの性質については、別の記事で詳しく扱っています。
奨励品種の指定は残るが、産地の記録は途絶えた
現在の位置づけは、資料によって見え方が異なります。
131号は、肉色が不安定になるなかで、2010年ごろには宮農36号を経済栽培する産地がなくなったと記しています。一方、農林水産省がまとめた「かんしょ品種の普及状況」の令和5年の都道府県別奨励品種には、沖縄県の食用として宮農36号がいまも掲載されています。
ただし同じ資料の品種別作付面積の表には、宮農36号の項目がありません。この表には「その他」とは別に「不明」の区分もあるため、この資料だけでは実際にどれだけ栽培されているかを読み取ることはできません。奨励品種としての掲載は続いているものの、現在の作付面積を特定できる公表資料は、いまのところ見当たらないということです。
よくある質問
宮農36号について、検索でよく見られる疑問をまとめました。あとの世代の品種と混同されやすい点も、あわせて整理します。
Q1. 宮農36号はどんな味だったのですか?
1949年の選抜時の記録では、粉質で食味は優秀と評価されています。宮城島での栽培でも食味の良さが挙げられ、繊維が少なく加工に向いていたと記録されています。ただし条件をそろえた比較試験ではないため、他の品種との甘さの優劣までは言えません。
Q2. 宮農36号は今も食べられますか?
経済栽培をする産地がなくなったという記録があり、店頭で見かけるのは難しいと考えられます。なお、沖縄県などのアリモドキゾウムシ・イモゾウムシの発生地域から未発生地域へは、植物防疫法により、さつまいもの苗・生の茎葉・生のいもの移動が原則として規制されています。ただし生のいもは、所定の蒸熱処理を受ければ持ち出せる場合があり、加工品も規制の対象外です。制度の詳しい内容は、沖縄の紅芋についての記事でも扱っています。
Q3. ちゅら恋紅や沖夢紫の親ですか?
いいえ、親ではありません。両品種は「備瀬」と「V4」の自然交雑から選ばれた系統です。131号によれば、当時は「宮農36号」と「備瀬」を交配親にする人工交配も検討されていましたが、実際に品種になったのは自然交雑から選ばれた系統でした。宮農36号は沖縄の紅芋産業の出発点にあたる品種であり、産業史上の位置づけと遺伝的な系譜は、分けて考える必要があります。
Q4. 宮農36号は登録品種ですか?
農林水産省の品種登録データベースで、宮農36号という名称の登録品種は確認できません。1947年の育成以来、系統番号のまま扱われてきた経緯からも、品種登録を経ていない可能性が高いと考えられます。ただし、これだけで登録の有無を断定することはできません。種苗の入手や取り扱いを検討される場合は、沖縄県の担当窓口にご確認ください。
Q5. 「宮農」は何と読むのですか?
一次資料・準一次資料のいずれにも読み仮名の記載が見当たらず、確かなことは言えません。宮古農事試験場に由来する名称であることは記録されていますが、本記事では読みを断定せずに表記しています。
まとめ
宮農36号は、1947年度に宮古島で交配が始まり、1949年までに選抜された、系統番号のまま広まったさつまいもの品種です。ここまでの要点を整理します。
記録に残るかぎり、沖縄で最初に濃い紫の肉色を持った品種であり、読谷村のむらおこしを通じて「紅芋」という呼び名が定着するきっかけになりました。選抜から40年余りを経て県の奨励品種となり、かいよう病で読谷村からうるま市へ産地を移しながら、加工原料として評価された時期もあります。しかし2000年代に入って肉色が退色し、2010年ごろには経済栽培をする産地が途絶えました。
備瀬やV4は、宮農36号とは別に沖縄へ入ってきたいもです。それでも、それらが「紅芋」と呼ばれるようになった土台をつくったのは、この品種でした。品種ごとの色や用途の違いは紫芋の品種一覧で比較しています。紫芋そのものについては、紫芋とはの記事で扱っています。
ふくむらさきどっとこむ
